近衛十四郎「柳生武芸帳」シリーズは作品を経るごとに凄味を増し8作目の松村昌治「柳生武芸帳 片目の忍者」では恐ろしい突撃映画になった。
そして最後となる9本目の倉田準二「十兵衛暗殺剣」は時代劇全体の歴史に残る死闘を刻む。
シリーズ2作目の井沢雅彦「柳生武芸帳 夜ざくら秘剣」では逆手二刀流も披露した殺陣は「十兵衛暗殺剣」ではなりふり構わぬ斬り合いへ。
※以下ネタバレ
冒頭からフンドシ一丁・短剣一振り口にくわえ水中を泳ぐ謎の男。
短剣は重石を切り捨てるため、銃声が行動を中止させ現状を打開できぬ湖賊たちを水面へ戻す。
かといって彼等は正義として描かれない。民間人を殺害し物資を奪おうとするのだから。
彼等を含め、正義だの悪だの無いただ生き残るための殺し合いに卑怯という言葉はない。新陰流の正当を賭け手段を択ばぬ非情さで壮絶な死闘を繰り広げるのだから。
幕屋大休が一門と共に黙祷を捧げるのはこれから結託する湖賊のためか、遺言を残した師のためか。正気と言い張る狂気に駆り立てる何か。
白昼堂々道場を建て、柳生十兵衛が同伴する将軍の前に立ちふさがり、看板を真っ二つにし帯刀で押し掛けエスカレートしていく挑戦・挑発。
我慢の限界で闇討ちならコチラも迎撃したった一人で柳生一門の暗殺を返り討ちにする大休の圧倒的強さ。
昼間の路上でも正面から一撃を受け、堂々と納刀・印可状・背中を見せる。
すれ違いざまの一太刀で破れた衣服から警戒し戦いを避けんとする十兵衛への余裕。
十兵衛も自分が斬り死にしてしまえば誰が将軍たちを守るのかと思ってか、立場が作法だの理屈を並べてしまう。
幕府の役人として様子見しようものなら道場の門下は十兵衛の知らぬ間に殺人を企て、直前になって人を斬った経験が無いと漏らし自分の手を切る有様の道場剣法。対する大休は闇夜も一対多数も物ともしない。
傘を盾代わりにし、小太刀で長刀を受け流し間合いを詰め、確実に殺せる距離でぐりぐりブッ刺す。
返り血あびりゃ下駄を脱ぎ草原で拭うように素足、斬って刺して指も両目も容赦なく斬り捨てる。敵前逃亡者に見せつける様に太刀も心もへし折って。
気付けば道場も死屍累々、ホトケの変わり果てた面を見てようやく重い腰と裃(かみしも)を脱ぎ捨て討伐を決意する。
地に足ついていれば押し入れからの奇襲だろうと倒せるが、足場も視界も不安定な場では着物を結び下に着こんだ鎖帷子程度では助からない。
大休の気分次第で手段を選んでも選ばずとも圧倒され、悶え苦しみ悔しさを滲ませた表情のまま次から次に殺されていく。刀もへし折られ死に物狂いで脇差までブッ刺し水中へ逃げるほかない。
湖賊の圧倒的な物量と地の利、闇夜でピラニアの如く柳生一門に襲い掛かる壮絶な集団戦。
船の側面を叩き鳴らし、手裏剣から松明まで投げ込みまくり、流血の無さがかえって斬れたのか叩き落しただけなのかキリの無い、水中カメラが捉える無限に攻め寄せる恐ろしさ。
大半の登場人物は名も無き一兵・一振りの刃・消耗品として死にまくる。十兵衛でさえ大休が存在を食う勢い。生き延び続けてしまった門下の一人も都合よく助力を果たせず無惨に散る。
数少ない女性陣の美鶴は湖賊のために身を捧げるが、互いに利用しあう関係で忠誠心は無い。
救い出された篠は恩義からか危険を顧みずたった一人で十兵衛を見つけ出す。彼女もまた十兵衛なくして湖賊たちの恐怖から解放される明日はない。
十兵衛も幕府の管理職→討伐隊の頭→遊撃的ゲリラ的な奇襲で敵の得物を奪い逆襲を狙う一人の剣士・兵士としてボロボロになりながら戦い抜く。
刀の血脂をイチイチ拭う暇もなくなる。とにかく必死だ。時に絶えず動き足掻き、時に消耗した体力回復のため打開のため息を潜め機会を伺い続ける。どんな手を使ってでも必ず確実に殺すため。
下半身が水に浸かる浅瀬での決闘。
奪った太刀を予備として壁に突き刺し、刀を幾度折られようが手裏剣で太刀を受け、投擲し、情けない声で狼狽えるは本気か演技か徒手空拳でかわし続け利き腕を潰す勝機を見出す。
最後の最期で大休はあくまでも新陰流の正当を言い張り流血と共に倒れる。あらゆる手段を尽くしても殺せなかった剣客に対して。
生き残った十兵衛も、湖賊たちも互いが全滅するまで仇討ちするほどの義理はない。
正気を取り戻したからか、大休さえ斬れば、篠のため恩人一人くらいは生還させたいからか、幕府の者としてか一人の人間としてか。
思えばこんな紙切れ一枚のために大休も十兵衛も夥しい犠牲を出してしまった。
湖賊も大休なくしてこれからどうしていいものか。やろうと思えば大休と共に十兵衛をなぶり殺しに出来たかも知れない。
しかし大休は対決を選んでしまった。十兵衛が船にたどり着くまで余裕ぶっこいて女と寝るわ、自ら十兵衛と同じ足場に赴き、真っ白な着物を水浸し血塗れにし果てた。
同じ近衛の山内鉄也「忍者狩り」は、他の家臣が駆けつけこじ開けるまで邪魔が入らぬ閉鎖空間による強制的な一対一。集団戦メインでサシの勝負が出来る作品は大概戦力を消費した最後の決着。
今作は決闘を選べる生殺与奪を敵のボスが握っている。将軍の前であまり相手にしてくれなかったあの柳生が、権力側ではなく一人の人間十兵衛として『勝負!』を挑んでくる姿。
大休も一味の頭ではなく一人の武人・人間として性(サガ)に逆らえず戦いたくなってしまったのか。
余裕、慢心。それを退けた男を殺せるのか?柳生の剣を叩き折れたのは大休であって我々ではない。殺したとしても他の柳生、徳川と戦って生き延びれるのか?
地元住民からも買ってる積年の恨みを考えると、まっとうに生きるなんてとてもじゃないが出来そうにない。
この映画で思い出すのがラオール・ウォルシュ「遠い太鼓」。
水中カメラが捉えるナイフによる決闘、争いに終止符を打つため大将同士の一騎打ちでケリをつける。
白人と異文明・先住諸部族のセミノール族。あの映画のワイアット(ゲイリー・クーパー)はクリーク族の女と結婚した過去を持つ。
今作の大休は利害の一致で美鶴と肉体関係も結ぶ。
黒澤「七人の侍」でもそうだが、西部劇にリスペクトを捧げる時代劇は同じ日本人同士でも“賊”だの何かしらの線引きをし互いに理解し合えず血で血を洗う争いを描く。湖賊たちが太鼓の様に船側を鳴らしたのは、他者の理解を得ることのない文化・民族としての側面も描写されていたからだろうか。それは分からない。
たった1時間30分で迎えた決着。あと30分あればもっと湖賊の現状や登場人物の掘り下げが出来たかも知れない。
他の集団抗争時代劇がそうであるように、壮大な構想から一番やりたいことをするために他の要素を削りに削り尖らせてしまったジャンルなのだ。
説明不足な部分も個人的な解釈でアレコレ書いてしまったが、やはり完璧な作品ではない。それを補って余りある緊張と迫力がこの映画にはある。
戦後の時代劇そのものが際限なく追求してしまった何か。
黒澤明が「羅生門」や脚本を手掛けた森一生「荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻」を経て「七人の侍」「隠し砦の三悪人」「用心棒」「椿三十郎」で極めてしまった殺陣のリアリティ迫真性。
それに触発されたか内田吐夢も「血槍富士」から「妖刀物語 花の吉原百人斬り」、「宮本武蔵」シリーズで激しさを増す。
元をたどれば戦前の内田「土」で描かれた泥臭い現実味を黒澤が伊藤大輔たちの猛烈なアクション等をリスペクトして自作に取り入れたようなものだが。
小林正樹も伊藤の武士道アンチテーゼ時代劇をリスペクトして「切腹」等を撮ったが、黒澤&三船敏郎の一瞬の攻防に対するカウンターとしてジリジリとしたせめぎ合いと別種の緊張を描く。
工藤栄一「十三人の刺客」「大殺陣」「十一人の侍」といった集団抗争時代劇は「七人の侍」で描かれた集団戦の延長。
近衛十四郎なら山内鉄也「忍者狩り」、松村昌治「柳生武芸帳 片目の忍者」そして倉田「十兵衛暗殺剣」。
大友柳太朗となら加藤泰「丹下左膳 乾雲坤竜の巻」、長谷川安人「十七人の忍者」の流れ。
この後の東映は深作欣二「仁義なき戦い」シリーズといったヤクザたちが血で血を洗いなりふりかまわない抗争に身を投じてしまう。
脚本は「柳生武芸帳 片目の忍者」等の笠原和夫ではじまり「忍者狩り」「十兵衛暗殺剣」等の高田宏治で締めくくられる。
・