倍速視聴は相手に合わせる姿勢の放棄である

漫画や小説といった自分のペースで読めるものならともかく、映画・アニメ・TVドラマ・ラジオ・演劇といった相手のやり方に合わせる作品で倍速視聴を行うということはそれを否定する行為なのではないか。
 
個人的には演出意図の無視は間の取り方、リズム、タイミングも狂ってるしセリフも聞き取りづらいし音もキンキンになるし不愉快でしかないです。
アホみたいな速さで見てもギャグにしかなりません。
ただでさえ作品によっては早口だったりボソボソ声だったり音質の劣化や収録環境のせいで何言ってるか全然聞き取れない作品もあるというのに。
 
この手の問題は映画黎明期からあります。
サイレント映画の頃は映写機を手回しで上映しますから回す人間の速度によって映画の再生速度も変わってしまう。
トーキー以降の映写機は自動で以降のVHS(ビデオ)やDVD、Blu-ray、ネットの配信といった再生機器で流すと早回しのチャカチャカした動きになる。
そのチャカチャカ動きが苦手でトーキー映画と同じように等速にする試みもあります(修復された二川文太郎「雄呂血」等)。
最も音が無い作品がほとんどで(専用の音楽を作った作品もありますが)上映スタッフや販売会社によって付けられる音楽もバラバラ。
日本のように活動弁士が映像に合わせてセリフを入れるパターンも。
 
またトーキー以降も演出としてサイレント映画のような早回しでスピード感を出す作品、それの逆で一瞬の出来事をスローモーションで引き延ばしたり。
スローモーションは映画創世期はリュミエール兄弟の頃からありますね。
 
サイレント映画でさえそういう嫌悪感を持つ人は持つように、この倍速視聴への嫌悪感は何かのか。
例えば漫画や小説の投稿持ち込みをした人が目の前でマシンガンのようにサッサッサッと読まれ『ちゃんと読んでんの!?』と内心不安でいっぱいになる感じに似ているかと。
あるいは、学校の授業で作文書かされみんなで読みあう時にやたら速い人が読んでいるか心配になる時とか。
自分も知らず知らず嫌悪している行動をしているのかも知れない...それを他者の行動でようやく自覚するあの瞬間。
 
好き嫌いならそれでいいんです。
 
ただ...何故!現実のクソみたいなことは倍速したり飛ばしたりできないのに!!
それを一時忘れさせてくれる楽しみの時間を倍速せにゃあならんのかと。
 
話題作りだからしょうがなく?嫌いならやめてしまえ!好きになる努力をしなさいよ!!努力したが嫌いならそれはそれでいい!宿敵を倒すために敵を知る段階に切り替えなさいよ!!
クソ野郎やクソ女郎やクソジェンダ郎や災害対策や害虫駆除や戦争だって研究はするでしょ!?世の中早送りできないことばかり
 
そういう意味で創作を見る・聞くという行為もまた闘争!
相手の試行錯誤や手練手管をどう受け止め・受け流し・受け入れ・ハネのけるのか。
 
食事で飯を食うように、生きる上で最低限欠かせない行動、気に入ったら続ければいいし、嫌ならやめる、嫌でも続けにゃならんなら何かしらの面白みを見出す。
 
だからこそ自分が面白いと思う作品に出会うまで見続ける者もいるし、1本でやめる人もいる。
 
倍速視聴とは与えられた時間の中で自分に何ができ、何処まで挑めるのか努力することを放棄する行為なのではないか。