裏・映画史(編集中)

映画史を簡単にまとめたユセフ・イシャグプール「ル・シネマ」も入門書・要点を整理する参考にしたいという方は是非ともお読み下さい。

エジソンリュミエール兄弟よりも早く映画を創造したとされるルイ・ル・プランス。
ル・プランスの行方が途切れてから彼の産んだフィルムもしばらく消息を絶ちますが、消息を絶つ前にフィルムを見た人間が少なからずいた事も確か。エジソンリュミエール兄弟も見ていたに違いない。映画の産声は「街角を歩く男」といった作品の人々が動き始めようとする“一瞬”から生まれていったのです。

リュミエールが撮った列車は、ジャン・ルノワール「獣人」を初め数多くの映画で印象的な役割を担う事になる。
 
「ピクニック」「トニ」「トスカ」を通じてルノワールの下で学んだルキノ・ヴィスコンティは、本物へのこだわりとシュトロハイムの豪華絢爛な貴族趣味を持って「夏の嵐」「山猫」等を完成させていく。

月世界旅行は白黒で撮られ公開された作品をメリエス自ら人工着色を施し、カラー映画の元祖としても知られています。
着色ではなく自然なテクニカラーで映画が撮られるのはレイ・バートレット・フィジオ(Wray Bartlett Physioc)の「The Gulf Between」やチェスター・フランクリンの「恋の睡蓮」のパートカラーまで待つことになります。
 
ルノワール「坊やに下剤を」はスクリーンに初めてトイレを映したそうです。
 

スペインのメリエスことセグンド・ド・ショーモン(セグンド・デ・チョーモン)は、メリエスの影響を強く受け、更にアレンジを加えて独自の映画やアニメーションを創造する。
特にグリフィスのイントレランスに影響を与えたジョヴァンニ・パストローネのカビリアの撮影や、
バスター・キートン「セブン・チャンス」に先駆けた「Los guapos del parque」を監督した事でも有名です。

 
サイレント時代創世記は、プロデューサーや国の圧力等によってフィルムがズタズタにカットされてしまった作品が多いです。
 
トーキーの時代ですら「ベージン平原(ベジン高原)」は政府の圧力でフィルムが廃棄させられてスチール写真と脚本だけが残された状態、「イワン雷帝は作られる予定だった第三部が完全に抹殺されてしまう。
アタラント号のフィルムは何十年もしていた状態でした。
 
日本はもっと酷い。検閲地獄&劣悪極まる保存環境。

当時の世界中の検閲官とフィルムの破棄を命じやがったクソ野郎共はあと100万回死んじまえばいいんです。

ルノワールの映画人生はアルベルト・カヴァルカンティの「かわいいリリー」への出演から始まり、その頃から水との付き合いも始まる。

 
クレアランス・バジャー「あれ(It)」は映画史上初めてズームレンズが使われた初期の作品の一つ。クララ・ボウ主演。


カメラを持った男(Человек с киноаппаратом) ジガ・ヴェルトフ
「CHELOVEK S KINO-APPARATOM」
フラハティ、ヨリス・イヴェンスを繋ぐドキュメンタリー作家がヴェルトフ。同時にフラハティはエイゼン・シュテインのモンタージュ技術をさらに加速させた存在であり、後に誕生したヌーヴェル・ヴァーグゴダールが彼の名にちなんで「ジガ・ヴェルトフ集団」を結成する事になります。
「カメラを持った男(これがロシアだ)」は、当時のソ連(ロシア)市民の一日を通して「字幕もなく」、「シナリオもなく」、「ドラマもない」、「視覚的現象における映画的コミュニケーションの実験をフィルムに焼き付けるのです。

マルセル・カルネやポール・グリモー等の作品で優れた脚本を残したジャック・プレヴェール
そのグリモーの「やぶにらみの暴君」が、本来の姿ではない王と鳥によって映画史に刻まれる悲劇。

 
犠牲 ロジェ・リオン
J’ai tue! Fidelite,C’est moi qui ai tue
未見。向こうでも未ソフト化の作品。フランスを舞台にした早川雪洲に息を呑む作品とか。
詳細は蓮實重彦「映画狂人日記が詳しいです。
 
ナチスポーランド侵攻によって祖国を追われたステファン・クデルスキーは、スイスのローザンヌ大学での研究途中に携帯用テープレコーダーを完成させる。
1951年にそれを「NagraI(英語で「will record(良い録音)」)としてデビューさせ、「ナグラ」を創設する。「ナグラ」は報道やオリンピックは元より映画産業の発展にも貢献。
ハリウッドをはじめ日本の映画も格段に音が良くなりました。