エジソンやリュミエール兄弟よりも早く映画を創造したとされるルイ・ル・プランス。
ル・プランスの行方が途切れてから彼の産んだフィルムもしばらく消息を絶ちますが、消息を絶つ前にフィルムを見た人間が少なからずいた事も確か。エジソンやリュミエール兄弟も見ていたに違いない。映画の産声は「街角を歩く男」といった作品の人々が動き始めようとする“一瞬”から生まれていったのです。
「月世界旅行」は白黒で撮られ公開された作品をメリエス自ら人工着色を施し、カラー映画の元祖としても知られています。
着色ではなく自然なテクニカラーで映画が撮られるのはレイ・バートレット・フィジオ(Wray Bartlett Physioc)の「The Gulf Between」やチェスター・フランクリンの「恋の睡蓮」のパートカラーまで待つことになります。
スペインのメリエスことセグンド・ド・ショーモン(セグンド・デ・チョーモン)は、メリエスの影響を強く受け、更にアレンジを加えて独自の映画やアニメーションを創造する。
特にグリフィスの「イントレランス」に影響を与えたジョヴァンニ・パストローネの「カビリア」の撮影や、
バスター・キートンの「セブン・チャンス」に先駆けた「Los guapos del parque」を監督した事でも有名です。
当時の世界中の検閲官とフィルムの破棄を命じやがったクソ野郎共はあと100万回死んじまえばいいんです。
ルノワールの映画人生はアルベルト・カヴァルカンティの「かわいいリリー」への出演から始まり、その頃から水との付き合いも始まる。
カメラを持った男(Человек с киноаппаратом) ジガ・ヴェルトフ
「CHELOVEK S KINO-APPARATOM」。
フラハティ、ヨリス・イヴェンスを繋ぐドキュメンタリー作家がヴェルトフ。同時にフラハティはエイゼン・シュテインのモンタージュ技術をさらに加速させた存在であり、後に誕生したヌーヴェル・ヴァーグのゴダールが彼の名にちなんで「ジガ・ヴェルトフ集団」を結成する事になります。
「カメラを持った男(これがロシアだ)」は、当時のソ連(ロシア)市民の一日を通して「字幕もなく」、「シナリオもなく」、「ドラマもない」、「視覚的現象における映画的コミュニケーションの実験をフィルムに焼き付けるのです。
マルセル・カルネやポール・グリモー等の作品で優れた脚本を残したジャック・プレヴェール。
そのグリモーの「やぶにらみの暴君」が、本来の姿ではない「王と鳥」によって映画史に刻まれる悲劇。
J’ai tue! Fidelite,C’est moi qui ai tue
ハリウッドをはじめ日本の映画も格段に音が良くなりました。