「映画芸術」が信用できないのは、荒井晴彦という「害」のせい

全5項目

●概要

2017年の「第26回 あきた十文字映画祭」のパンフレット。そこに記載されていたある文章が波紋を拡げます。

その文章を殴り書いた荒井晴彦という男は、映画祭で上映されない作品を批判。
仮に上映される作品だったとしても、お客さんに見せようって作品にケチを付けるなんて本当に見せる気あんのかと疑うレベルの発言です。
 
映画祭という、作品とその作り手たちを発掘し、多くの人にそれを紹介しようってイベントなのに。
 
あろうことか、批判する理由も客のせいにしたり、何故かまったく関係ない政治の話になったり、内容を盛大に勘違いしていたり。
発言者の実情を知っている人間からすれば、失笑ものの話ばかりです。
 
荒井の発言がいかに見当違いも甚だしいのか、5つの項目に分けて語っていきたいと思います。

●×客が悪い 〇客を理解できないテメエが悪い

第26回 あきた十文字映画祭」のパンフレットより画像にして引用
 
映画というものは、いかに客に受け入れてもらえるか・映画館に足を運んでもらえるか、その上で自分のやりたいことにどこまで挑めるのか…ということを研鑽してきた娯楽であり、エンターテインメントの中から映画的な美しさも追及していく総合芸術のはず。
 
娯楽の提供者として客に尽くし、収益を挙げて自分を使ってくれる映画関係者、自分の作品を上映してくれる映画館に貢献する。それは仕事として当然のことであり、仕事をやり遂げているからこそ自分のこだわりをスクリーンに反映するという野望にも挑戦させてもらえる。その野望が客にも受け入れられれば万々歳です。
彼が難癖つけていた君の名は。この世界の片隅にが大ヒットを飛ばしていたのも、「どうすれば客に認めてもらえるのか」という努力が実った証だからです。
 
対して荒井は客に認められるという一番大切なことを軽視し、知ろうとする努力も怠り、あろうことか客に八つ当たり。
モチロン、良い映画は良い、売り上げや受賞の有無がすべてじゃない、映画を愛する観客一人一人にとってそんなものは関係ない。それはそうです。
ですが、それと貢献度はまた別の話。映画が売れなきゃ製作費も出ない、作品を認めてくれる人もいなければ誰も注目してくれない、自分の撮りたい映画だってその資金が無ければ作ることもできない。下手すりゃ干されて何も出来なくなるんですから。

●名作を見ていない(荒井が)

荒井は「客が名作を見ていないからこの程度で感動できる」とかもほざいていましたが、あなたこそ「名作ばかり見て来たのにそんなしょーもない映画しか作れんのか」と足蹴にされて終わりです。

荒井晴彦による監督この国の空
 
でも名作見ろって言う割には、日本を代表する黒澤明の映画は「用心棒」しか見ていないと暴露。しかも見ろと言われてようやく見たあり様(参考:西部邁ゼミナール」より)
 
何でも「強者の立場から撮られた映画だから見ません(キリッ」と勘違い。黒澤作品は、弱者が強者に立ち向かったり、振り回されたりする作品もしばしばあるというのに(振り回される隠し砦の三悪人、弱者たちの日常どん底しかり)。
また、弱者が強者と共闘してより強大な敵に立ち向かう作品も多いのです(七人の侍しかり、強者が弱者の協力を得て危機を切り抜ける「用心棒」しかり)。
映画の好き嫌いならしょうがないでしょう。ですが見ている見ていないではまるで違います。映画評論という、あらゆる映画を見て批評を下す仕事をしている以上、好き嫌いに関係なく何でも浴びるように見るのが当然なんじゃないんですか?
 
黒澤は戦前から脚本家・助監督を経て姿三四郎でデビューしてヒットを飛ばし、戦後も上記で述べた作品をはじめ「生きる」「赤ひげ」等々多くの作品が国内・海外で高い評価を得ており、彼に影響を受けたというフォロワーも数えきれないくらいいます。
そんな黒澤を、映画批評をやっている人間なら最早常識レベルと言っても過言じゃない黒澤を、批評家のクセに“いまどき”黒澤さえ満足に抑えていないような奴が、よくもぬけぬけと「名作を見ろ」だなんてほざけたものです。己の無知を恥とも思えないような奴がのさばっていると思うだけでも残念でなりません。

 
ちなみに、荒井が想い出の作品として語っていた突然炎のごとくを手掛けたフランソワ・トリュフォー(参考:荒井晴彦インタビュー<br>──『恋人たちの失われた ...た革命』」より)。
 
トリュフォーも映画評論家から出発した人間の一人でしたが、当然ながら黒澤の映画も一通り見たそうです。気に入った隠し砦の三悪人七人の侍も、肌に合わなかったという椿三十郎「用心棒」も(参考:フランソワ・トリュフォー 最後のインタビュー」)。
彼は映画監督としても成功し、自身の国際的な成功だけでなく、彼が影響を受けたという多くの映画人の再評価を促すキッカケにもなった。荒井さんはどうなんでしょうかねえ。
 
あと、荒井が難癖付けていたこの世界の片隅にの監督である片渕須直七人の侍をはじめ黒澤映画だけでなく色々見まくって勉強したそうです(参考:「WEBアニメスタイル β運動の岸辺」)。
 
君の名は。新海誠なんて映画どころか万葉集の和歌とか大古典にも学んだり(参考:週刊ダイヤモンド2016年9月22日号に掲載されたインタビュー)。
 
だから何だではなく、ただの事実
上記で述べた「どうすれば客に認めてもらえるのか」ということを、トリュフォーや片渕、新海は古典から学ぶという形でもちゃんと実践しているのですから。これだけでも巨大なる差が荒井と彼等にはあるのです。

●「この世界の片隅に」の内容を誤解


 
荒井が「戦争=被害映画」と勘違いしていたこの世界の片隅に(パンフは「この世界の片隅で」と誤記)は、平穏な日常生活を送っていた主人公たちが戦争に巻き込まれていく作品。
 
突然始まった国の政策によって戦争に協力させられ、それでも巻き込まれた被害者としてではなく、むしろ主人公たちなりに戦うことを続けた姿も描かれていました。
 
国が勝つと最後まで信じ、軍人として国に尽くす夫を家族とともに支え続けた。また、その夫も家族たちを守ろうと命懸けで行動し続けた。
防空壕を作るのを手伝ったのも、防空頭巾を被り奔走し続けたのも、家についた火を命懸けで消そうとしたのも、すべては「戦争から大切なものを守る」という戦う意思があったからこそ。彼女が玉音放送を聞いた後も「うちはこんなん納得できん!」と言ったのは、その強い想いが故。
 
しかし、気づけば戦争によって大切なものを失っていた。約束を果たせなかった、守ってやれなかったという責任を感じていたからこそ、主人公たちは涙を流した。
 
それだけに終わらず、主人公は自分たちも侵略を行った国に加担をしていたのではないかという罪の意識、加害者だったのではないかということも感じてしまうのです。
 
今まで戦争していた相手は、暴力で従わせようとする「鬼畜米英」だと教えられてきた。相手が絶対的な悪だと思っていたからこそ、自分たちの行動を正当化できていた。
ところが、玉音放送の内容、外に飛び出した先で見た朝鮮半島の独立を意味する「太極旗を見て、今までの印象はまったく変わってしまう。
その旗は、日本に統治されていた時代から半島の人々のアイデンティティを表すシンボルだったのですから。

この世界の片隅ににおける太極旗(こうの史代の原作漫画及び映画の劇中にも登場)
 
だからこそ主人公は、自分たちの国が「暴力で独立を許さなかった」ではないかと思い知らされ、それを無自覚なまま戦い続けた結果を受け止め、自分たちの「責任」をより強く感じたのです。

●「アニメーション技術」の否定=映画そのものを否定

荒井自身は「アニメーション監督 原 恵一」クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」に賛辞を贈っていたり、アニメ作品に対しても一定の評価はあるようです。
 
しかし、今回のパンフにはまるでアニメだからダメだと言わんばかり。
そもそも「アニメーション」は技術としてサイレント映画の創成期から実写映画に大いに取り入れられ、次元の垣根を越え映画界を支えてきた重要なものです。
それは当時の技術的限界、実写では表現しきれない映像を撮るために必要不可欠な要素だったからこそ。
 
切り絵を効果的に用意た月世界旅行しかり、書き割りの演出効果が炸裂したメトロポリスしかり、人形のコマ撮りによるストップモーション「ロスト・ワールド」キングコングしかり、合成技術で恐怖を引き立てるヒッチコック「鳥」しかり。
過去に大ヒットを記録した作品群を通して、その素晴らしさは広く観客に伝わっています。

 
それにアニメであれ実写であれ、絵コンテという設計図を作り、それを基に作品を作っていく。
動画で撮る実写も、絵を描き加え作画していくアニメも、フィルムのリール上では一枚一枚の写真になり、映写機を通し初めて連続して動く動画になる。
 
映画史に名を刻む監督としてよく挙げられるアルフレッド・ヒッチコックセルゲイ・エイゼンシュテイン等も、絵コンテを重視したそうです。
 
日本でも伝説的な監督の一人として数えられる山中貞雄も、パラパラ漫画という一枚一枚の絵を連続させることで動きを生み出す「技術」から出発しています。
 
山中のファンであった市川崑も元々はアニメーターとして研鑽を積み、実写に転向してからはアニメーター時代の技術をフルに活かし斬新な演出を生んでいった。
 
アニメ界と実写界を行き来する庵野秀明も、アニメーション技術の一種であるCG(コンピュータグラフィックス)を実写作品シン・ゴジラで巧みに使っていました。
 
その技術の一つを否定的に捉えるということすなわち、映画の歴史そのものも否定しかねないのです。

●「おたく」否定は自身の否定にもなりかねない


荒井が脚本を手掛けた「赫い髪の女」
 
パンフの口振りからだと、「おたく」という言葉をまるで差別用語のように使うではありませんが。
 
そもそも、荒井自身が映画が好きだから映画監督や批評をやってる「映画オタク」じゃねえのかよと。何様のつもりだと。好きだからこそ映画芸術なんて雑誌でランキング作ったりとかしてんじゃねーのかよと。
 
かつて日活ロマンポルノ「赫い髪の女といった傑作群で脚本家として腕を振るった荒井は何処に行ったんでしょうね。
てめえがポルノと言うだけで不当に差別されていた現場で戦ってきた身でありながら、今度は自分がその差別する側になってんですから。
「ポルノ」というだけで普通の客からは敬遠されていたという事実をこのクソジジイは忘れてしまっているのでしょうか。
 
時代が進めばWの悲劇探偵物語といった一般にも大ヒットの話題作の脚本にも関わっていく。一方でアイドル主演の映画だと一部から作品を低く見られたり、さらなる苦労も経験した人間だろうに。

荒井の脚本Wの悲劇
 
それ以降のアンタの映画も戦争扱ってる映画なのに戦争そっちのけで浮気だの性行だのズッコンバッコンばっかりじゃねえかこの原作強姦魔の変態野郎!!!(脚本「共食い」しかり「戦争とひとりの女」しかり)。
一般映画だろうがエロティックを追い求めすぎるマニアック趣向な時点で、敷居が高くてお客さんが寄り付いてくれないんですよ。それを理解している上で自分の道を突き進むならまだしも…。
 
「映画館はオタクに乗っ取られた」ですって…?逆にアンタら映画オタクが映画芸術を乗っ取り、映画館で駄作を垂れ流し、観客を遠ざけてしまったんじゃないんですかと。
 
いいや!真の「おたく」という奴は、自らが映画に狂ってしまったマニア、映画狂(シネフィル)ということをちゃんと自覚し、その上で自分が一般人だったということを思い出し、見つめ直し、原点に立ち返り、どうすれば大衆に受け入れてもらえるかということに真摯に向き合ってきた人間たちのことを言うのかも知れません。
 
荒井のようにポルノ映画出身の監督は数多くいますが、荒井以上にヒットを飛ばし映画界、観客に貢献してきた人間がどれだけ多いことか(大和屋竺しかり滝田洋二郎しかり周防正行しかりしかり)。
 
昔の荒井も彼等に負けず劣らずの魂を持っていたはずなのに、自身の存在さえ否定しかねない発言を今回してしまったのです。その魂は消えてしまったのでしょうか。